2022-12-02 Fri
●Stellenbosch1679年10月にケープ総督として就任したシモン・ファンデルステル(Simon van del Stel)は、就任早速、ケープ周辺の未開の土地を探検して回りました。
目的は、貿易船に補給する食糧や、ケープに移り住んだ会社社員たちの食糧の需要が増え、食糧増産(穀物生産)するための農地に適した土地を探すためでした。
1679年11月、ファンデルステルは兵士を引き連れて東に向かい、その夜は小川のほとりで野営しました。
その小川はもっと大きな川に合流していることがわかり、その川をEersterivier(エールステリビエール:「最初の川」という意味)と名付け、川をさかのぼりました。

※Stellenboschの町を流れるEersterivier
川が山の谷間に入っていくところに、川で流された土砂が堆積した肥沃な土地を発見しました。
一行は川の中州にキャンプを張り、この土地を数日間探索して、水が豊富であり、植物が豊かに育つ耕作地として最適な場所だと確認しました。
彼らはこの地を「Van der Stel se Bosch」(ファンデルステルの森)と名付け、のちに現在のステレンボッシュ(Stellenbosch)という町の名前になりました。
その半年後の1680年5月、ヨーロッパ入植者たちが住むケープタウン(テーブル湾の正面)から8つのフリーバーガー家族がこの土地に移り住み、土地を開墾して小麦を植え始めました。
この家族たちによって、ここがケープタウンに次いで2番目のヨーロッパ人入植地となりました。
総督のファンデルステルは、この地をとても気に入り、その後、自分の誕生日(10月14日)は毎年この地を訪れて、地元の農民、ハンター、探検家などと交流し、宴会や射撃大会などをして過ごしていたそうです。


※1967年から2000年に再現されたお祭りの様子
(ステレンボッシュV.O.C. Kruithuis展示物より)
1683年までに30以上のフリーバーガー家族がこの地に移り住み、ケープタウンの農地と比較しても遜色ない量の農産物が収穫できるようになりました。
1685年4月にはオランダ東インド会社の特命委員ヘンドリック・アドリアン・ファンリーデ・トットドラケンシュタイン(Hendrik Adriaan Van Rheede tot Drakenstein)がケープを訪問し、5月にファンデルステルとともにステレンボッシュも視察で訪れました。

※ヘンドリック・アドリアン・ファンリーデ・トットドラケンシュタイン
(ステレンボッシュVillage Museum展示物より)
ファンリーデはステレンボッシュが作物を育てるのに理想的な場所だと確信し、行政官を配置し統治機関を設置することや教会を建設することなどを指示しました。
(ファンリーデは、ステレンボッシュを会社の食糧生産地とするために会社の社員を入植させたかったようですが、すでにフリーバーガー家族が移り住んでいたので、計画をもって組織的に発展させるよう指示しました)
そして、その年(1685年)のうちにヤン・ムルダー(Jan Mulder)が最初の行政官として任命され、ステレンボッシュは正式に「村」となりました。

※1710年頃のステレンボッシュの様子。中央のドープ通りを中心に集落ができています。
(Burgerhuis博物館展示物より)
2年後の1687年10月にステレンボッシュで行われた(ファンデルステルの誕生日に合わせた)お祭りにファンデルステルが参加し、ケープからの馬車道(現在のドープ通り:Dorp Street)と川(エールステリビエール:Eersterivier)を中心に区分した土地をフリーバーガーたちに割り当てました。

※現在のドープ通り
●Drakenstein 名前の由来
またこの年(1687年)、ステレンボッシュとは別に、東は南北に続く山脈と、西は現在のパール山とシモンズ山に挟まれた谷間を、2年前にケープを訪れた東インド会社の特命委員ヘンドリック・アドリアン・ファンリード・トットドラケンシュタイン(Hendrik Adriaan van Reede tot Drakenstein)に敬意を表して、ドラケンシュタインと名付け、この地域(現在のパール地区)にも定住者に土地を割り当てました。

※この地域の山脈にも彼の名前がつけられました。
(引用 ※01)
引用元:
※01 google map
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