2022-11-18 Fri
◆ワインランド南アフリカではワイン生産地をワインランドと呼び、それらの多くがある西ケープ州をいくつかの地域に分けて観光ツアーが企画されています。
多くのワイナリが集まっているのがステレンボッシュ(Stellenbosch)と、フランシュフック(Franschhoek)やパール(Paarl)、ウェリントン(Wellington)が含まれるドラケンシュタイン(Drakenstein)と言われる地域です。
これらの地域を中心に歴史や観光スポットなどを紹介していきます。

(引用 ※01)
地図の中央(ピンク色の点線)の山脈は、ケープの東側に切れ目なく南北につながり、ケープに入植したヨーロッパ人にとって、ここから東(内陸)に向かおうとするときの障壁となり、長い間、山脈の手前にあるドラケンシュタイン(Drakenstein)地域が入植の限界地となっていました。

※パール山からパールの町と山脈を眺める
◆内陸探索
●ドラケンスタイン(Drakenstein)
ヤン・ファンリーベック(Jan van Riebeeck)を司令官とするオランダ東インド会社の一団が、貿易船の食糧補給基地を建設するために1652年5月にケープにやってきました。
彼らはすぐにテーブル湾の正面に自分たちの生活の場となる砦(Fort de Goede Hoop)と食糧生産をする農場(現在のカンパニーズガーデン)を作り始めました。


※ヤン・ファンリーベックが入植したときに作られた砦(現在は残っていません)と、時代が下りますが1790年頃のカンパニーズガーデンの様子
(砦の模型:Castle of Good Hope展示物より)
(カンパニーズガーデン案内板より)
もともとケープには、狩猟採集するサン人(San)と牛の牧畜をするコイコイ人(Khoikhoi)がいました。


※San人とKhoiKhoi人の生活の様子を描いたイラスト
(引用 ※02)
先住民のコイコイ人から物々交換で牛(肉)を手に入れることと、農地に適した土地を探すために、1657年10月19日にアブラハム・ガッベマ(Abraham Gabbema)率いる探索隊が東(内陸)に向かってケープを出発しました。
3日後、彼らは現在のパール山(Paarl Mountain)の南を通過し、「De Groote Berghriviere」と名付けた川(現在のバーグ川:Berg River)のほとりでキャンプを張りました。
これが、ヨーロッパ人がドラケンシュタイン地域に足を踏み入れた最初となりました。
雨上がりの朝、山の上にある花崗岩の2つの露頭(岩が土砂や植物に覆われず、地肌がむき出しになっている部分)が朝日に照らされて輝いているのを見つけ、彼らは山に「de Diamondt en de Peerlberg」(ダイヤモンドと真珠の山)と名付けました。
※現在のパール山(Paarl Mountain)のゴードンズ・ロック(Gordon's Rock)とパール・ロック(Paarl Rock)のことだと考えます。

※Paarlの町から見たPaarl山の露頭。(左側がPaarl Rock、右側がGordon’s Rock) 3つ目の露頭Bretagne RockはPaarl Rockの裏側にあります。
次の日から2日間、川に沿って北上しました。
この探検中、川にカバがいるのを見つけたり、シマウマの足跡や糞を見つけたり、サイが探検隊に突進してきたこともあったそうです。
その4か月後、新たに探検隊が編成され、コイコイ人の家畜と交換する品物を持ってドラケンシュタインへと出発しました。
この探検では、日記や地図を詳細に記録したことで、ケープに入植したヨーロッパ人達にドラケンシュタイン地域の存在が広く知られるようになりました。
1657年は、オランダ東インド会社が食糧補給基地を建設するために社員をケープに派遣してから5年が経った年で、やってきた人たちの中に、社員としての契約期間が切れる人たちが出てきました。
彼らはヨーロッパに帰る人もいましたが、引き続きケープに残ることを望む人たちもいました。
会社側も、貿易船に供給する食糧生産のための労働力が必要であったことと、もう一方で社員を増やすことで経費が膨らむ懸念があったため、契約の切れた人たちをフリーバーガー(Vrye Burgher:自由市民)として認め、食糧(穀物)生産をして会社に適正な価格で販売することを条件に定住を許可し、土地を与えました。
新たに与えられた土地は、テーブルマウンテンの東を流れるリースベック川(Liesbeek River)に沿った場所が割り当てられ、ヨーロッパ人の生活の範囲は広がっていきました。
一方、ドラケンシュタイン地方は、1658年の探検後、新たに探検隊を編成して組織的に訪れることもなく、カバなど野生動物の狩りをする目的でフリーバーガー達が時々訪れていた程度でした。
引用元:
※01 Google Map
※02 Cape Epic(Hymen Picard著)
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