2022-06-17 Fri
◆ケープ半島の人々フィッシュフックの背後にある丘に、ピアーズ・ケーブ(Peers Cave)という名前の洞窟があります。


※ピアーズ・ケーブでの発掘の様子
(Fish Hoek Valley博物館展示物より)
1927年からの調査で、この洞窟から人類の骨を含む1万年から1万5千年前の遺跡が見つかりました。
フィッシュフックを含め、この辺りには先史時代から人の営みがありました。
オランダ東インド会社が貿易船の冬の避難場所としてシモンズ湾を利用し始めたのが1742年のことでした。
シモンズ湾に船を停泊させている間、船員たちを滞在させられるよう施設の建設が始まり、アジアやアフリカ各地から連れてこられた奴隷たちがシモンズ湾で働きました。
奴隷たちは一定期間建設作業に従事したのち、解放されて自由の身となりました。
彼らはその後もフォルス湾沿岸に残り、漁を行うようになり、コミュニティもできていきました。
1814年のロンドン条約で正式にケープはオランダ東インド会社の植民地からイギリスの植民地になり、シモンズ湾に海軍基地ができてから、イギリスからの移住者が増えました。
そのすぐあとの1819年、現在のシエラレオネ共和国のフリータウンにイギリスの海軍基地ができ、そこで雇われた黒人たちもサイモンズタウンにやってきました。
彼らはクルーメン(KroomenまたはKrumen)と呼ばれ、暑さに強く、元気で勤勉でまじめという評判があり、3年契約で採用されて海軍基地内のあらゆる仕事に従事しました。(クルーメンとは、彼らがKru族出身だったところからそう呼ばれた)
彼らの中には契約が終了した後も引き続きサイモンズタウンに残り、地元のコミュニティの中に混ざりあっていきました。

※海軍基地内のクルーメンたち
(サイモンズタウン海軍基地の案内板より)

※サイモンズタウンに移り住み、生涯を終えたクルーメンたち
(サイモンズタウンのSeaforth墓地にて)
1840年頃からは、フィリピンからも人がやってきました。
彼らが何をしに、どうやってケープまでやってきたのかはっきりした記録が残っていませんが、コークベイやセントジェームズ周辺に住みつき、漁法技術を伝承したことで、フォルス湾の漁業が経済活動として確立していきました。


※彼らはマニラズ(Manilas)と呼ばれていました
(セントジェームズのマニラ・ステップス)
1880年代にケープ半島まで延びてきた鉄道建設には、東ケープ地方の先住民だったコーサ人を連れてきて従事させました。
鉄道の完成後も、港の造船所の建設やその造船所での仕事に就き、ケープ半島に残りました。
また鉄道開通により、インド人やユダヤ人もサイモンズタウンやミューゼンバーグに流入し、商売やホテルなどの経営を始めました。
こうして1900年代に入るまでに様々な出自の人々がケープ半島に住み着き、混ざりあいながらコミュニティができていきました。
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