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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

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ケープ半島 ④
◆ミューゼンバーグの戦い

1700年代の終わり、ヨーロッパで大きな混乱が始まりました。

1792年、フランス革命に干渉するオーストリアにフランス革命政府が宣戦布告をし、これをきっかけに、ヨーロッパを2分する大きな戦争へと発展しました。

ケープを統治していたオランダ東インド会社の本拠地であったオランダ(当時はネーデルラント連邦共和国)は、1794年の終わり(冬)に河川の凍結を利用され、フランス革命軍に攻め込まれて占領されてしまいました。
(オランダを統治していたオラニエ公ウィレム5世はイギリスに亡命し、オランダはフランスの衛星国としてバタヴィア共和国となった)

フランス革命軍と戦っていたイギリスは、ケープもフランスの支配下に置かれて、自国の喜望峰まわりの貿易ルートが脅かされるのではないかと懸念しました。

イギリスは戦略的・政治的な理由からケープに侵攻することを以前から考えており、ケープの調査を行っていました。
その結果、いくつもの砲台や要塞で守られているテーブル湾から攻め込むより、ホウト湾(Hout Bay)やフォルス湾(False Bay)から上陸し、南から攻め込むほうが有利だと知っていました。

ケープ半島の町とケープタウンの位置
(引用 ※01)

1795年、イギリスは軍艦4隻をケープに送り、フォルス湾から侵攻し始めました。
(その前にホウト湾に攻め込もうとしましたが、すでに湾の入り口にある砲台を強化していたので、ホウト湾からの侵攻は見送られました : ホウトベイ(Hout Bay) ③

貿易船の冬の避難場所として使用していたシモンズ湾には、船を停泊させるために必要な設備や人員が配置されていましたが、ケープタウンからは距離があり、陸路も整備されていなかったため、外敵から攻め込まれた時の防衛力は十分ではありませんでした。

1795年6月、イギリス軍はシモンズ湾で歩兵を上陸させて制圧し、ケープタウンに向けて北に進攻しました。

Muizenbergの戦い 侵攻の様子
(キャッスル 軍事博物館展示物より)

現在のセントジェームズ(St James)とミューゼンバーグ(Muizenberg)の間には、山が海岸まで迫って人が通れる場所が非常に狭くなっている場所:ミューゼンバーグ・パス(Muizenberg Pass)があり、その地形を利用すれば兵力の足りないオランダ東インド会社の兵士たちでもイギリス軍を食い止めることができるであろうと、シモンズ湾にいた兵士や住民たちは小競り合いを繰り返しながらミューゼンバーグまで後退しました。

Muizenberg Passでの戦いの様子
※ Muizenberg Passでの戦いの様子
(Posthuys博物館展示物)

現在のMuizenberg Pass
※ 現在のMuisenberg Pass

しかしイギリス軍は、すでにミューゼンバーグ・パスのことは調査済みで、4隻の軍艦をミューゼンバーグの沖合まで進め、イギリス軍の歩兵を迎え撃とうとしていたオランダ側の防衛陣地に沖合から砲弾の雨を降らしたため、オランダ側はパニックに陥り、ザントフレイ(Zandvlei:現在はSandvlei)という池の後方まで後退しました。(1795年8月)

※この地域には現在Retreat(後退・退却という意味)という地名が付いています。

その後しばらく小競り合いが続きましたが、イギリス軍の援軍が到着してケープタウンまで侵攻され、とうとうオランダ東インド会社は降伏し、ケープ植民地はイギリス軍の手に落ちました。(1795年9月16日)

この戦いがケープ植民地が1度目のイギリス支配下に入った出来事になりました。

※1802年にイギリスとフランスの間で「アミアンの和約」が締結され、翌年ケープ植民地はバタヴィア共和国(現在のオランダ)に返還されました。
(オランダ東インド会社は1799年に解散し消滅したため、会社ではなく国に返還された)



引用元:
※01 OpenStreetMap


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テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

ケープ半島 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
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