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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

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カンパニーズガーデン (Company's Garden) ①
◆インド航路の発見

ヨーロッパの人々(キリスト教徒)は、かつては陸路を使ってインドやアジアから香辛料を中心とした交易品を手に入れていました。
しかし、1453年にオスマン帝国(イスラム教徒)が東ローマ帝国を滅ぼしたことによって、陸路を使って香辛料を手に入れることができなくなりました。
そのため、陸路を使わない新しいルート(海路)を開拓するため、ヨーロッパ諸国は未開の海に出ていきました。

その動きの中、ポルトガルのバーソロミュー・ディアス(Bartholomew Diaz)がアフリカ大陸に南端があることを発見(1488年)し、バスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は海路を使ってインドまで行けることを発見(1498年)しました。

ポルトガルのインド航路発見
(引用 ※01)
※ディオゴ・カンは1485年にナミビアのウォルビス湾(Cape Cross)まで到達しました。

その後、この新しいルート(アフリカ周りの海路)を使って、ポルトガルは独占的にアジアとの貿易を始めました。

1500年代の終わり、ポルトガルの支配下にあったインドのゴア(Goa)の総督の秘書として働いていたヤン・ホイヘン・ファンリンスホーテン(Jan Huyghen van Linschoten)というオランダ人が、密かにポルトガルの海図を精密にコピーして出版したことによって、ポルトガルが独占していたアフリカ周りのアジア航路が開けました。
これにより、オランダ、イギリス、フランスなどの国は、海路を使ったインドやアジアとの交易を本格的に始め、1600年代初めには各国の東インド会社も設立されました。



オランダ東インド会社の貿易船の船団が1647年にケープタウン近くを航行中、その中のニューハーレム(Nieuwe Haerlem)号が海岸に乗り上げてしまいました。(3月25日)
船団はニューハーレム号の乗員60名と貨物を陸地に残し、いったんその地を去りました。
その1年後、彼らは救出されオランダに無事帰国することができました。
救出されるまでの間、残された乗員たちはテーブルマウンテンの麓に川を発見し、その水を飲料水としたり、野菜の種を植えて育てて食料にしたり、原住民と物々交換をしながら生き延びたそうです。

オランダに帰国後、彼らは会社の取締役会にケープで飲料水や野菜を育てるのに必要な淡水が得られることと、ケープが貿易船の食料補給基地として使えると報告しました。
それによって、オランダ東インド会社はケープに補給基地を建設することを決定し、ヤン・ファン・リーベック(Jan van Riebeeck)を指揮官として5隻の船団をケープに送り込みました。
彼らの船は、1652年4月5日にテーブル湾に到着し、その翌日(4月6日)にケープに初めて上陸しました。(2隻は遅れて到着した)


農地開拓の責任者ヘンドリック・ブーム(Hendrik Boom)は、ケープに到着後、すぐに農地に適した場所を探し始め、4月29日には種植えの準備ができたと記録しています。

その当時、現在のカンパニーズガーデンあたりに小川が流れていました。最初の農地もその川を中心に作られました。
今は街が整備されて埋められましたが、その川の水を海岸の砦や船に運ぶために、農地から現在のアダリー通り(Adderley Street)に沿って水路も作られました。

1679年頃のケープタウンの様子
(Slave Lodge博物館 展示物)
※ カンパニーズガーデンの周辺に川が複数流れていたことがわかります。


農地の目的は貿易船に補給する食糧の生産ですから、穀物、野菜、果物が中心でした。
その当時、船乗りに恐れられていた壊血病を防ぐために柑橘類が植えられたという記述もありましたが、「壊血病にはどうも柑橘類がよさそう」とわかったのは1700年代に入ってからなので、入植当時は特に柑橘類に注目して栽培してはいないと考えます。(栽培された果物の中に偶然あったかもしれませんが)

⇒ ビタミンCが発見され、その不足が壊血病の原因だとはっきりわかったのは1900年代に入ってからです。

ほかにも、ハーブや薬草も植えられたようです。
また、ヤン・ファン・リーベックの日記にオリーブの木に関する記述も残っています。
現在、南アフリカ(西ケープ州)でもオリーブが栽培され、オリーブオイルの生産がおこなわれていますが、この当時植えられたオリーブの木が継承されて現在のオリーブ農園になったのではなく、今から100年ほど前に新たに持ち込まれたオリーブの木をもとにオリーブ産業が始まったと言われています。

カンパニーズガーデンと町の様子(年代不明)
(カンパニーズガーデン ビジターセンタ 展示物)
※ カンパニーズガーデンからアダリー通りにかけて、整備された水路が通っていることがわかります。

のちにオーク(樫の木)やバラなどの観賞用の植物も植えられるようになり、農地だけでなく居住地などもアダリー通り(Adderley Street)やガバメント通り(Government Avenue)を中心に建設されていきました。

1760年頃のケープタウンの様子
(引用 ※02)
※ 赤い部分は建物。

引用元:
※01 Illustrated History of South Africa(Reader’s Digest) 第3版
※02 Cape Town Book(Struik Travel & Heritage) 第1版


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テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

カンパニーズガーデン | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(1)
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2020-04-04 土 07:21:16 | | [編集]
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