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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

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ワインランド ⑩
●ジャガイモ臭いワイン
1700年代後半からコンスタンシアで生産されたコンスタンシアワインを除いて、オランダ東インド会社が入植した当初から、ケープで生産されていたワインはずっと質の悪い(評判の悪い)ワインでした。

1800年代終わりのイギリスでは、ケープ産ワインのことを「惨めなゴミ」「極悪」「不潔」「ジャガイモ臭い」などと、思いつく限りのひどい表現がされていました。

おそらくは母国でワイン生産をしていた人もいたであろうフランスのユグノーたちが、ケープ(ドラケンシュタイン)に移り住んだことで、ブドウの栽培やワイン生産の知識や技術が入ってきただろうと考えられますが、もともとケープに持ち込まれていたブドウの木がワインには適していない品種であったり、ワイン生産に必要な道具や、貯蔵や熟成する設備のない辺境の地でワイン生産をしていたこと、彼らの生活が貧しかったため、熟成させるために長期保管する余裕もなく、すぐに現金化せざるを得なかったこと、ドラケンシュタインやステレンボッシュから消費地であるケープタウンまで運搬するのに日にちとお金がかかったこと(ドラケンシュタインからケープタウンに運搬するのに往復4日かかったことと、一度に牛車で運べる量が限られていたので何度も往復する必要があった)、ワインが発酵し続けたり劣化するのを止めるために、質の悪いワインで造ったブランデーを添加していたことなど、多くの要因で質の悪いワインが造り続けられました。

Cape Flatsで休息する牛車
※ワイン樽を牛車でケープタウンに運ぶ途中、Cape Flatsで休息をしている様子(年代不詳)
(引用 ※01)

農民たちは目先の利益を得るために質より量を優先し、需要を越える量がケープの市場にあふれ、さらに価格低下を起こして自らの首を絞めていました。

●協同組合
ケープでは、ワインが生産が始まった当初から、収穫されたブドウは農家ごとに醸造・蒸留され、商人たちにワインやブランデーが販売されていました。

イギリスが植民地化した1800年代から、植民地政府は質の良いワインやブランデーを造るよう農民たちに訴えていました。
政府は農民たちの生活向上のために、ワイン生産するためのガイドラインを作成したり、農民たちが実際にどうやって生産しているか調査したり、質の良いものを農民たちが試飲できるように事務所を開いたりもしました。
しかし、肝心な農民たちは興味も示さず、その活動にも参加しませんでした。

1829年にはステレンボッシュにジェネラル・ワイン・デポ(General Wine Depot)というケープで初めての協同組合が設立され、農家からワインを購入し、適正な価格になるまで保管してイギリスに輸出する取り組みを始めました。(1845年破産)
また、1833年には良いワインを生産した生産者にカップや賞金を出す取り組みも行われましたが、これにも農民たちは関心を示しませんでした。(1857年に廃止)

ワインだけでなく、ブランデーの質の向上も試行錯誤されました。
ケープから海外にワインを輸出する際、輸送中の劣化を防ぐためにブランデーを添加していましたが、ブランデーを造るワイン自体の質の低さや、蒸留も個々の農家で行なっていたことから、なかなか質の良いブランデーを造ることができませんでした。
ワインと同じくカップや賞金を出して生産者のモチベーション向上を期待しましたが、成功はしませんでした。

品質を上げるための経済的余裕がないため、農民たちの品質に対する無関心が1800年代終わりまで続き、同時に不安定な生活が続きました。

1900年代に入り、農家が資金を出し合って共同のワインセラーを作り、熟成と適正な価格になるまで保管するという協同組合型ワインセラーの構想を農業協同組合の監督官であったP.J. ハノン(P.J. Hannon)や、ワイン専門家であったレイモンド・デュボア(Raymond Dubois)が中心となって提案し、植民地政府も資金の融資を始めました。
彼らの提案に従い、ドラケンシュタイン地域を中心に小規模な協同組合がいくつか設立され、ワインセラーが作られました。
セラーができたことによって、均一な品質のワインが生産できるようになりましたが、コストをかけすぎて次々と財政難に陥りました。



引用元:
※01 Illustrated History of South Africa(Reader‘s Digest出版)




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ワインランド ⑨
●イギリス植民地時代
1800年代に入り、ケープがイギリスの植民地になった後、イギリスでケープ産ワインの需要が高まりました。
当時ヨーロッパではナポレオン戦争が起き、ナポレオンがイギリスの経済的な痛手を与えようと、大陸との貿易を禁止する大陸封鎖令を1806年に発令しました。

これにより、イギリスにフランス産ワインが入ってこなくなり、それを補うために1813年にケープ産ワインに特恵関税(減税措置)を与えました。
それまで過剰生産して満足な収入を得られなかった状況が、突然イギリスという巨大な市場が現れたことで、農民たちは大いに喜び、ブドウの木を増やし、イギリスへの輸出(依存)を大幅に増やしました。

戦争終結後、イギリスは1825年から特恵関税の税率を徐々に戻していきましたが、1861年にフランスとの自由貿易協定が結ばれると同時に、ケープ産ワインに対する特恵関税を撤廃してしまいました。
この協定が結ばれると、質の良いフランス産ワインがイギリスに輸入されるようになり、ケープ産ワインは行き場を失い、一気に余剰の発生(大量の廃棄)と価格低下を起こしました。

その後10年ほど経つと、1870年代のキンバリーでのダイヤモンドラッシュ、1880年代のヨハネスブルクでのゴールドラッシュにより、今度は植民地内(採掘者向け)に特需が現れ、過剰生産していた分を現金に換えることができました。

同じ頃、ヨーロッパではフィロキセラ(Phylloxera)という害虫がブドウの木を枯らし始めました。
そして、1886年にはケープタウンのブドウ畑(Mowbrayという地区)でもフィロキセラが発見されてしまいました。(コンスタンシア④
この害虫はケープタウン周辺だけでなく、コンスタンシア、ステレンボッシュ、ドラケンシュタインなど、ケープ中のブドウ畑に急速に広がりました。

この害虫によってワイン農家は大きな被害を受けましたが、同じ頃にケープにやってきたピックストーン(Harry Ernest Victor Pickstone)がブドウ以外の果樹への切り替えを農民たちに訴えまわったことで、農業の多角化が始まり、農民たちは安定した収入を得られるようになりました。(ワインランド⑦

引用元:
※アイキャッチ wikipedia ナポレオン・ボナパルト(書斎のナポレオン:ジャック=ルイ・ダヴィッド画)




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