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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

皆さんからのご質問、コメント 楽しみにしています。

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ワインランド ⑧
◆ワイン

現在は世界中のコンテストで受賞するほど質の高いワインを生産しているケープ(南アフリカ)ですが、1900年代半ばまでは浮き沈みの激しい歴史を歩んできました。

●オランダ東インド会社時代
会社が入植してすぐに開墾して作った畑(現在のカンパニーズガーデン)にも、わずかながらブドウを栽培してワインを造ったようですが、ケープへの入植は貿易船への食糧供給が目的なので、ワイン生産は重要ではありませんでした

※最初のブドウの木は、1655年にケープに到着しましたが、初めてワインが作られたブドウの木は、1656年に輸入され、カンパニーズガーデンに植えられたものでした。
その木から1659年に15リットルほどのワインが初めて作られたそうです。

現在のカンパニーズガーデンのブドウの木
※現在のカンパニーズガーデンのブドウの木

のちに新しい土地を与えられてフリーバーガーとなった人たちも穀物生産を優先するよう指示されていました。

1688年にケープに到着したフランスのユグノーたち(ワインランド③)も、食糧(穀物)を生産するために、会社の拠点があるケープタウンから遠く離れたドラケンシュタイン地域に土地を与えられました。
母国のフランスで迫害を受けて着の身着のままで逃げてきた彼らは、人のいない原野を開墾し、作物を育て収穫物(穀物)を会社に納めていました。

土地を開墾する中で、彼らはドラケンシュタイン地域がブドウの栽培に適した土地であることがわかり、苗を手に入れて、ブドウ栽培も始めました。

彼らの努力で、会社が必要とするだけの量の穀物や、荷車を引く馬や牛の餌となるオーツ麦や大麦などもすぐに十分な量を生産できるようになりました。
その傍らでブドウ栽培も順調に増やし、1700年頃にはケープの中心であるケープタウンやステレンボッシュよりも多くのワインを生産するまでになりました。

ケープで生産されたワインは、もっぱらケープに住むオランダ東インド会社の社員(特に下級階層)や、ケープに立ち寄った貿易船(会社以外の他国の船も含めて)の船員たちが消費し、ごく少量が輸出されてオランダ東インド会社のアジアの拠点などに運ばれていた程度でした。
(そもそも会社はワイン貿易で利益を上げようとは考えていなかった)
ドラケンシュタイン地域の農民たちは現金収入が得られるワイン生産に精を出し、ケープで消費しきれる量を越え、余剰が出るようになりました。

ステレンボッシュやドラケンシュタインにフリーバーガーユグノーたちを入植させ、農地拡大(食糧増産)を指揮してきたシモン・ファンデルステル(Simon van del Stel)が1699年にケープの総督を引退し、息子のヴィレム・アドリア―ン・ファンデルステル(Willem Adriaan van del Stel)が総督を引き継ぎました。

彼は総督という地位を利用し、兄弟のフランス(Frans van der Stel)と一緒に大規模なワイン農場(現在のVergelegen Wine Estate)を所有し、ワインの大量生産とワイン市場を独占しました。
それにより、ワインの価格の下落を起こし、ワインを生産していた農民たちを苦しめました。

ヴィレムの市場独占に苦しんだ農民たちは、状況の改善を訴えるためにオランダ東インド会社のアムステルダム本部に嘆願書を送ったことで、ヴィレムは総督を解任されてオランダに送還されました。

ヴィレム(とフランス)が1707年に送還されたことで、父のシモン(1712年死亡)が所有していたコンスタンシアのワイン農場を引き継ぐ者がいなくなり、分割されて人の手に渡ることになりました。(コンスタンシア②

ヴィレムが送還されたことで、ワイン価格が落ち着き、ワイン農家の生活はしばらくの間安定し、ブドウ畑の面積もワイン生産量も増えていきました。
七年戦争(1756~1763年)など、ヨーロッパでの戦争によって、海外に一時的なケープ産ワインの需要が生まれたこともありましたが、生産量に見合った需要が継続的になく、売れないで余ったワインを捨ててしまう農家も多かったようです。

フランシュフックのワイン
※時代は違いますが、現在フランシュフックで造られているワイン
(ユグノー記念博物館展示物より)




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ワインランド ⑦
◆フルーツ生産地

1892年、あるイギリス人が夢を持ってケープにやってきました。
彼の名前はハリー・アーネスト・ビクター・ピックストーン(Harry Ernest Victor Pickstone)といい、ケープで果樹の苗木屋を開こうと考えていました。

Harry Ernest Victor Pickstone
※ハリー・アーネスト・ビクター・ピックストーン
(ウェリントン博物館展示物より)

彼は19歳の1884年に兵士として遠征に参加し、イギリスの植民地であったケープにやってきました。
遠征から無事に帰還したピックストーンは、1888年に金(Gold)でひと儲けしようとカリフォルニアに移住しましたが、結局そこではホテルのウェイターや果樹園の従業員として働いていました。
果樹園で働く中で、彼は果物栽培の現代的な方法に精通し、かつて遠征で行ったケープで果樹の苗木屋をやりたいと考え始めました。

1892年、彼は夢をかなえようとケープに戻ってきました。
彼には十分な資金はありませんでしたが、その当時ケープ植民地の首相であり資産家であったセシル・ローズ(Cecil John Rhodes)への紹介状を持っていました。

その頃、ケープのブドウ畑では、フィロキセラという害虫(コンスタンシア④)が猛威を振るい、ブドウ農家は大きな被害を受けていたことと、首相のローズは彼らを救済するための方法に頭を悩ませていました。
ローズはピックストーンが設立したパイオニア・フルーツ栽培会社(Pioneer Fruit Growing Company)に資金提供し、ピックストーンは弟のホレス(Horace)とともにドラケンシュタインの農場で品種改良を行いながらリンゴや桃、プラム、梨などの苗木を生産し、農民たちには新しい果樹への切り替えを訴えてまわりました。

その一方で、ピックストーンがケープに戻ってきた1892年、冷蔵設備が開発されてヨーロッパとの間の貨物船に導入されました。
これにより、ケープ植民地内でしか消費できなかった生の果物が巨大な消費地であるヨーロッパまで運搬できるようになり、ケープでの果物生産に弾みがつきました。

ローズが政界を引退した1896年までには、ピックストーンが導入した新しい果樹も十分実をつけられるようになり、農家も新たな収入源を確保することができました。
果物産業が大きく成長すると確信したローズはその年のうちにローズフルーツファームズという会社を設立してドラケンシュタイン地域の29もの農場を買収し、ピックストーンに可能な限りすべての苗木を提供するよう依頼しました。(のちにピックストーンは取締役として会社に招かれた)

こうして、ドラケンシュタイン地域は一大フルーツ生産地となっていきました。
ローズが亡くなった1902年以降、ローズフルーツファームは缶詰やジャムの生産も始め、会社の買収や統合を繰り返しながら成長して、現在はRFG Foodsという会社になっています。

現在のRhodesブランドの商品① 現在のRhodesブランドの商品②
※現在のRhodesブランドの商品

また、ローズが買収した農場の1つは、フランシュフックの入り口にあるボッシェンダル(Boschendal)という名前で現在も残っています。





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