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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

皆さんからのご質問、コメント 楽しみにしています。

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ワインランド ④
◆交通

現在は舗装された道路が整い、ケープタウンからステレンボッシュやドラケンシュタイン地域にあるパールやフランシュフック、ウェリントンの町には、自動車で1時間ほど走れば行くことができます。

●馬車道
1657年にアブラハム・ガッベマ(Abraham Gabbema)らが探検して、ドラケンシュタイン地域はケープタウンにいたヨーロッパ人に広く知られるようになりましたが、探検以降しばらくの間、新たに訪れるヨーロッパ人はほとんどいませんでした。(ワインランド①
理由の一つは、ケープタウンからドラケンシュタイン地域までケープフラッツと呼ばれる砂地が広がっていることと、川がいくつも横切っていて、馬車(牛車)の往来を妨げていたからでした。

現在のケープフラッツ
※現在のケープフラッツ

シモン・ファンデルステルがステレンボッシュを探検し、その後フリーバーガーたちが入植し、農地を開拓し始めた1680年代の終わりから、ケープタウンとの馬車道も徐々に作られていきました。
1700年代初めには現在のN1(国道)に沿ったルートにドラケンシュタイン(パール)とケープタウンを結ぶ馬車道もできていました。
そのほかに、パール山を周回する道や、パールから現在のウェリントン(Wellington)を抜け、ドラケンシュタインの北部までつながる道もできました。

ケープタウンとドラケンシュタインを結ぶ馬車道
※1700年頃のケープタウンとドラケンシュタインを結ぶ馬車道(Illustrated History of South Afrika:Readers Digest出版を参照)
(地図引用 ※01)

一方、雨風によってこれらの道が荒れて通行できなくなることもしばしば起きたので、この地域を統括していたステレンボッシュの議会は、家畜に対して課税して資金を集めたり、農民が所有している奴隷たちを一定期間徴用して道路の整備を行いましたが、十分ではありませんでした。

Cape Flatsを進む牛車
※Cape Flatsを進む牛車(1780年代)
(引用 ※02)

イギリスがケープを植民地化した1800年代以降、道路整備専門の部局が作られ、道路を利用する人たちから通行料を取って整備の費用に充てたり、囚人を使った道路整備によって状況が良くなっていきました。

ただし、現在のようにアスファルトで舗装された道路ではなかったので、砂や石で路面がデコボコしていたり、道路を横切るいくつもの小川を渡ることが大変だったという記録がドラケンシュタインを訪れた旅行者によっていくつも残っています。



引用元:
※01 google map
※02 GOOD HOPE(Rijks Museum出版)




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ワインランド ③
◆ユグノー(Huguenot)

1500年代後半、フランス国内でキリスト教徒の中のカトリック(旧教派)とプロテスタント(新教派=ユグノーと呼ばれていた)との間で宗教戦争(ユグノー戦争)が起こりました。(フランスはカトリックの国)
1598年4月、アンリ4世による「ナントの王令」で(条件付きではあるが)信仰の自由が認められ、戦争は終結しました。

ナントの王令 フォンテーヌブローの王令
※ナントの王令とフォンテーヌブローの王令
(フランシュフックHuguenot Memorial Museum別館展示物より)

しかし1685年10月にルイ14世による「フォンテーヌブローの王令」が発せられ、「ナントの王令」で認められた信仰の自由は禁止され、プロテスタントへの弾圧が再開されました。
フランス国内のユグノーたちは密かにフランスを離れ、ドイツ(プロセイン)、スイス、オランダ、イギリスに脱出しました。

ユグノーの避難ルート
※ユグノーの避難ルート
(引用 ※01)

ケープでの労働力不足に悩んでいたオランダ東インド会社は、オランダに逃れてきたユグノーたちにケープへの移住を促し、1688年から1699年にかけて300名ほどがケープに到着しました。
ユグノーには農民、手工業者、商人などが多く、中にはブドウ栽培やワイン醸造技術を持ったものもいました。(ユグノーはフランス南部の農民が多かった)
ケープに来たユグノーたちは、主にドラケンシュタイン地域のオリファンツフック(Olifantshoek:象の谷間)と呼ばれていたところに土地を与えられ、農地を開拓していきました。

ここの地名はのちにle Coin Français(英語で「the French Corner:フランスの場所」の意味)に変わり、現在はフランシュフック(Franschhoek:オランダ語で「フランスの谷間」という意味)という名前になりました。(Hoekという意味の中に三方を丘や山に囲まれた谷や入り江、曲がりや角度が顕著な地形という意味があります)
彼らは農地に自分たちの出身地の名前をつけ、現在も農場や地名にその名前が残っているところが多くありますが、オランダ東インド会社の食糧生産のために移住してきたので、オランダ語の使用を命じられたことや、オランダ人やケープに奴隷として連れてこられたアジア人やアフリカ人との婚姻によって、フランス人としてのアイデンティは薄れていきました。

最初に割り当てられた農地
※フランシュフックに最初に割り当てられた農地
(ユグノー記念博物館展示物より)

オランダ東インド会社は食糧確保のために、入植者に対して穀物の栽培を優先して栽培するよう指示していましたが、ドラケンシュタイン地域の気候や地質はブドウ栽培に適していることがわかり、ユグノーたちによってドラケンシュタインでブドウ栽培やワイン醸造が始まりました。

ユグノーの生活道具① ユグノーの生活道具②
※ユグノーたちの生活の道具
(ユグノー記念博物館展示物より)



引用元:
※01 THE HUGUENOTS OF SOUTH AFRICA 1688-1988(Pieter Coertzen著)




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ワインランド ②
●Stellenbosch
1679年10月にケープ総督として就任したシモン・ファンデルステル(Simon van del Stel)は、就任早速、ケープ周辺の未開の土地を探検して回りました。
目的は、貿易船に補給する食糧や、ケープに移り住んだ会社社員たちの食糧の需要が増え、食糧増産(穀物生産)するための農地に適した土地を探すためでした。
1679年11月、ファンデルステルは兵士を引き連れて東に向かい、その夜は小川のほとりで野営しました。
その小川はもっと大きな川に合流していることがわかり、その川をEersterivier(エールステリビエール:「最初の川」という意味)と名付け、川をさかのぼりました。

Stellenboschを流れるEersterivier
※Stellenboschの町を流れるEersterivier

川が山の谷間に入っていくところに、川で流された土砂が堆積した肥沃な土地を発見しました。
一行は川の中州にキャンプを張り、この土地を数日間探索して、水が豊富であり、植物が豊かに育つ耕作地として最適な場所だと確認しました。
彼らはこの地を「Van der Stel se Bosch」(ファンデルステルの森)と名付け、のちに現在のステレンボッシュ(Stellenbosch)という町の名前になりました。

その半年後の1680年5月、ヨーロッパ入植者たちが住むケープタウン(テーブル湾の正面)から8つのフリーバーガー家族がこの土地に移り住み、土地を開墾して小麦を植え始めました。
この家族たちによって、ここがケープタウンに次いで2番目のヨーロッパ人入植地となりました。

総督のファンデルステルは、この地をとても気に入り、その後、自分の誕生日(10月14日)は毎年この地を訪れて、地元の農民、ハンター、探検家などと交流し、宴会や射撃大会などをして過ごしていたそうです。

Van del Stel祭りの様子① Van del Stel祭りの様子②
※1967年から2000年に再現されたお祭りの様子
(ステレンボッシュV.O.C. Kruithuis展示物より)

1683年までに30以上のフリーバーガー家族がこの地に移り住み、ケープタウンの農地と比較しても遜色ない量の農産物が収穫できるようになりました。
1685年4月にはオランダ東インド会社の特命委員ヘンドリック・アドリアン・ファンリーデ・トットドラケンシュタイン(Hendrik Adriaan Van Rheede tot Drakenstein)がケープを訪問し、5月にファンデルステルとともにステレンボッシュも視察で訪れました。

Hendrik Adriaan Van Rheede tot Drakenstein
※ヘンドリック・アドリアン・ファンリーデ・トットドラケンシュタイン
(ステレンボッシュVillage Museum展示物より)

ファンリーデはステレンボッシュが作物を育てるのに理想的な場所だと確信し、行政官を配置し統治機関を設置することや教会を建設することなどを指示しました。
(ファンリーデは、ステレンボッシュを会社の食糧生産地とするために会社の社員を入植させたかったようですが、すでにフリーバーガー家族が移り住んでいたので、計画をもって組織的に発展させるよう指示しました)
そして、その年(1685年)のうちにヤン・ムルダー(Jan Mulder)が最初の行政官として任命され、ステレンボッシュは正式に「村」となりました。

1710年頃のStellenbosch
※1710年頃のステレンボッシュの様子。中央のドープ通りを中心に集落ができています。
(Burgerhuis博物館展示物より)

2年後の1687年10月にステレンボッシュで行われた(ファンデルステルの誕生日に合わせた)お祭りにファンデルステルが参加し、ケープからの馬車道(現在のドープ通り:Dorp Street)と川(エールステリビエール:Eersterivier)を中心に区分した土地をフリーバーガーたちに割り当てました。

現在のドープ通り
※現在のドープ通り

●Drakenstein 名前の由来
またこの年(1687年)、ステレンボッシュとは別に、東は南北に続く山脈と、西は現在のパール山とシモンズ山に挟まれた谷間を、2年前にケープを訪れた東インド会社の特命委員ヘンドリック・アドリアン・ファンリード・トットドラケンシュタイン(Hendrik Adriaan van Reede tot Drakenstein)に敬意を表して、ドラケンシュタインと名付け、この地域(現在のパール地区)にも定住者に土地を割り当てました。

Drakenstein地域
※この地域の山脈にも彼の名前がつけられました。
(引用 ※01)



引用元:
※01 google map 




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