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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

皆さんからのご質問、コメント 楽しみにしています。

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ワインランド ①
◆ワインランド

南アフリカではワイン生産地をワインランドと呼び、それらの多くがある西ケープ州をいくつかの地域に分けて観光ツアーが企画されています。
多くのワイナリが集まっているのがステレンボッシュ(Stellenbosch)と、フランシュフック(Franschhoek)やパール(Paarl)、ウェリントン(Wellington)が含まれるドラケンシュタイン(Drakenstein)と言われる地域です。
これらの地域を中心に歴史や観光スポットなどを紹介していきます。

ワインランドの位置
(引用 ※01)

地図の中央(ピンク色の点線)の山脈は、ケープの東側に切れ目なく南北につながり、ケープに入植したヨーロッパ人にとって、ここから東(内陸)に向かおうとするときの障壁となり、長い間、山脈の手前にあるドラケンシュタイン(Drakenstein)地域が入植の限界地となっていました。

南北に連なる山脈とパールの町 パール山からの眺め
※パール山からパールの町と山脈を眺める

◆内陸探索

●ドラケンスタイン(Drakenstein)
ヤン・ファンリーベック(Jan van Riebeeck)を司令官とするオランダ東インド会社の一団が、貿易船の食糧補給基地を建設するために1652年5月にケープにやってきました。
彼らはすぐにテーブル湾の正面に自分たちの生活の場となる砦(Fort de Goede Hoop)と食糧生産をする農場(現在のカンパニーズガーデン)を作り始めました。

最初の砦 カンパニーズガーデン案内板
※ヤン・ファンリーベックが入植したときに作られた砦(現在は残っていません)と、時代が下りますが1790年頃のカンパニーズガーデンの様子
(砦の模型:Castle of Good Hope展示物より)
(カンパニーズガーデン案内板より)

もともとケープには、狩猟採集するサン人(San)と牛の牧畜をするコイコイ人(Khoikhoi)がいました。

San人 Khoikhoi人
※San人とKhoiKhoi人の生活の様子を描いたイラスト
(引用 ※02)

先住民のコイコイ人から物々交換で牛(肉)を手に入れることと、農地に適した土地を探すために、1657年10月19日にアブラハム・ガッベマ(Abraham Gabbema)率いる探索隊が東(内陸)に向かってケープを出発しました。

3日後、彼らは現在のパール山(Paarl Mountain)の南を通過し、「De Groote Berghriviere」と名付けた川(現在のバーグ川:Berg River)のほとりでキャンプを張りました。
これが、ヨーロッパ人がドラケンシュタイン地域に足を踏み入れた最初となりました。
雨上がりの朝、山の上にある花崗岩の2つの露頭(岩が土砂や植物に覆われず、地肌がむき出しになっている部分)が朝日に照らされて輝いているのを見つけ、彼らは山に「de Diamondt en de Peerlberg」(ダイヤモンドと真珠の山)と名付けました。
※現在のパール山(Paarl Mountain)のゴードンズ・ロック(Gordon's Rock)とパール・ロック(Paarl Rock)のことだと考えます。

パール山の2つの露頭
※Paarlの町から見たPaarl山の露頭。(左側がPaarl Rock、右側がGordon’s Rock) 3つ目の露頭Bretagne RockはPaarl Rockの裏側にあります。

次の日から2日間、川に沿って北上しました。
この探検中、川にカバがいるのを見つけたり、シマウマの足跡や糞を見つけたり、サイが探検隊に突進してきたこともあったそうです。

その4か月後、新たに探検隊が編成され、コイコイ人の家畜と交換する品物を持ってドラケンシュタインへと出発しました。
この探検では、日記や地図を詳細に記録したことで、ケープに入植したヨーロッパ人達にドラケンシュタイン地域の存在が広く知られるようになりました。

1657年は、オランダ東インド会社が食糧補給基地を建設するために社員をケープに派遣してから5年が経った年で、やってきた人たちの中に、社員としての契約期間が切れる人たちが出てきました。
彼らはヨーロッパに帰る人もいましたが、引き続きケープに残ることを望む人たちもいました。
会社側も、貿易船に供給する食糧生産のための労働力が必要であったことと、もう一方で社員を増やすことで経費が膨らむ懸念があったため、契約の切れた人たちをフリーバーガー(Vrye Burgher:自由市民)として認め、食糧(穀物)生産をして会社に適正な価格で販売することを条件に定住を許可し、土地を与えました。

新たに与えられた土地は、テーブルマウンテンの東を流れるリースベック川(Liesbeek River)に沿った場所が割り当てられ、ヨーロッパ人の生活の範囲は広がっていきました。
一方、ドラケンシュタイン地方は、1658年の探検後、新たに探検隊を編成して組織的に訪れることもなく、カバなど野生動物の狩りをする目的でフリーバーガー達が時々訪れていた程度でした。



引用元:
※01 Google Map
※02  Cape Epic(Hymen Picard著) 




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ワインランド | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ダーバン(Durban) ③
◆インド人年季奉公労働者

1848年、ダーバン近郊に住んでいたエドムンド・モアウッド(Edmund Morewood)は、いち早くサトウキビの苗を輸入してサトウキビ栽培を始め、1851年にナタールで初めて砂糖を生産しました。
これをきっかけに、ナタールの農家が次々とサトウキビ栽培を始めて、耕作面積が広がっていきました。

それに伴って、農場での働き手が必要になってきました。
この時はすでに奴隷を使うことは認められず、新たな働き手を探しました。

もともとナタール周辺には、ズールー族が住んでいました。
農民たちはズールー族の人たちを農場従事者にしようと試みましたが、彼らの伝統的な役割分担では、農地を耕し作物を育てるのは、女性の仕事であったため、受け入れられませんでした。

以前、モーリシャスのサトウキビ農場でインド人と一緒に働いていたジェームズ・サンダース(James Saunders)が、労働力不足を解決する方法として、インド人を連れてきて農場で雇うことを早くから新聞を通じて訴えていました。
モーリシャスなどの他のサトウキビ生産地では、すでにインド人を年季奉公労働者として使用していました。(奴隷としてではなく)
※ 年季奉公とは、雇用者との間で契約を結び、決められた期間働く雇用制度の一つで、被雇用者は住み込みで働き、生活に必要な食糧や日用品は支給されましたが、給与は支払われないか、支払われたとしてもごくわずかなことが多かったそうです。
実際には奴隷制度の言い逃れに使われることもあり、ナタールでも年季奉公労働者は劣悪な環境で働かされていたようです。

植民地政府はこの提案を検討し、1859年にナタールクーリー法第14号(Natal Coolie Law No.14)が成立されました。(Coolie:インド人を中心といたアジア人の低賃金労働者を示す蔑称)
この法律では年季奉公の契約期間を5年とし、その後はインドに戻るか、ナタールに住み続けるか選択することができました。

次の年(1860年)の11月には、最初のインド人労働者342人がナタールに到着しました。
アメリカの南北戦争の終結(1865年)によって世界の砂糖価格が急落し、1866年から1874年まで、新たな年季奉公者の流入はありませんでしたが、砂糖農場の労働力として不可欠な存在として、継続的にインド人労働者がやってきました。
契約が終了した労働者は、インドに戻る費用を出せなかったこともあり、多くはナタールに残り、行商人、漁師、仕立て屋、洗濯屋、料理人、職人、商人、機械工、園芸農業者として独立し事業を始めました。

また、年季奉公による移住が始まると、裕福なインド人も自らの費用でナタールに移住し、事業を始めたものもいました。
当時のイギリス帝国(イギリスとその植民地・海外領土を含んだ領域)の住民(帝国臣民)は人種や肌の色を問わず、帝国内での自由な移動・居住を保証されていました。
インドのマハトマ・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)もこの制度を利用して3年間ロンドンに留学し、法廷弁護士の資格を取得しました。
その後ナタールのインド系労働者からの依頼によって、1893年にガンジーもナタールに来ました。

ナタール植民地内でのインド人の急増と彼らの起業によって、白人たちは危機感を感じ、彼らに対する好意的な感情が憎悪(差別)に変わっていきました。
白人たちのインド系住民への差別に対して、ガンジーは21年間弁護士としてナタールでインド系住民の権利復活の活動をし、その中で「非暴力・不服従」という手法を生み出しました。

インド人の年季奉公のための移民は、年季奉公制度が終わる1911年まで続き、およそ50年間で15万人がナタールに移り住みました。
現在、ダーバンには彼らの子孫が130万人ほどいて、インド国外にある最大のインド人街とも言われています。




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ダーバン | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)