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Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

皆さんからのご質問、コメント 楽しみにしています。

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ダーバン(Durban) ②
◆サトウキビ プランテーション

イギリスは、1843年にナタール共和国(現在のクワズールー・ナタール州の南側)をフォールトレッカーから奪い、ナタール植民地としました。
イギリス人がナタールへ入植した当初は皮革や象牙の貿易が中心で、土地はまだ手付かずの状態でしたが、肥沃であることはわかっていました。
入植者たちは農地への転換を進めるため、温暖で湿度の高いこの地に適した作物を探りました。

1847 年から 1851 年にかけて、ダーバン北の海岸から数キロの範囲に、熱帯の作物を栽培する 8~200 ヘクタールの小規模農園が設立されました。
コーヒー、綿花、タバコ、藍、アロールート(地下茎からでんぷんが取れる植物)、サトウキビなどが試験栽培され、サトウキビが最も適していることがわかりました。

サトウキビ
※サトウキビ

ダーバン近郊のコンペンセーション(Compensation:現在のBallito近郊)という地域で綿花農場を営んでいたエドムンド・モアウッド(Edmund Morewood)は、1848年(1847年という記述もある)にサトウキビの栽培を紹介されたことをきっかけに、いち早くインド洋に浮かぶモーリシャスからサトウキビの苗を輸入して植え、1851年にはスタンガー(Stanger:Ballitoの北)というところに製糖工場を建設しました。
彼は1851年の終わりに初めて砂糖を生産し、翌年の初めにはNatal Times誌によって広く知られました。

これをきっかけに、サトウキビ栽培を始める農家も増え、1855年には「植民地砂糖」としてダーバンで一般販売されるようになりました。
1860年までに、ナタールの北海岸を中心に約4953ヘクタールにサトウキビが植えられ、23の製糖工場が稼動していました。
(ただし、初めて砂糖生産に成功したモアウッドは資金調達がうまくできず、1853年にナタールを去ってしまいました)

1860年以降、ロンドンの資本が入ったこと、砂糖生産設備が蒸気機関を使ったものに置き換わって効率化したこと、農場で働くためにインドからの移住者が増えたこと、より多くの砂糖を生産できるサトウキビの品種の導入等があり、ナタールでの砂糖産業は拡大していきました。
1880年には、約7328ヘクタールでサトウキビが栽培され、70の工場が稼動し、砂糖の輸出額は21万5,000ポンドありました。
1910年にはズールー族が居住する地域(ツゲラ川より北側)にも農地が拡大し、生産者も吸収・合併が行われて大規模化・効率化が行われていきました。

サトウキビ畑① サトウキビ畑②
※写真奥の緑の斜面もサトウキビ畑が続いています。

その後、深刻な干ばつやイナゴの大発生、経済制裁などがあって短期的に上下はしましたが、クワズールー・ナタールでのサトウキビ栽培・砂糖生産はさらに拡大していきました。

現在はクワズールー・ナタール(KwaZulu-Natal)州と隣のムプマランガ(Mpumalanga)州の約23,000の契約農家でサトウキビ栽培がおこなわれ、これらの州の農業収入の半分を占めています。
また、製糖会社は6つの巨大な企業に集約されて14の製糖工場(うち12ヶ所がクワズールー・ナタール州)が稼働し、サトウキビ栽培から砂糖の生産までで直接間接含めておよそ44万人の雇用を生み出す産業となりました。
2019年の統計では、南アフリカの砂糖生産量は1,900万トンほどあり、砂糖生産国の15番目にランキングされています。

陳列棚の砂糖
※6つの企業の一つ、トンガート・ヒューレット・シュガー・リミテッド(Tongaat-Hulett Sugar Limited)は、1857年にイギリスからダーバンに移住したジェームズ・リエージュ・ヒューレット(James Liege Hulett)によって1892年に設立された会社が元になった会社です。




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ダーバン | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ダーバン(Durban) ①
◆ナタール

1488年にバーソロミューディアスがアフリカ大陸の南端を発見し、船でインドまで行けることがわかったあと、バスコダガマがインドへ向けて航海しました。
バーソロミューディアスが到達したアフリカ大陸の南端を越え、未知の海岸を航行する途中、クリスマスの日に到着し停泊した場所に、「Terra do Natal」(テーラ・ド・ナタール:ポルトガル語で「クリスマスの地」)という名前をつけました。

地図 南アフリカ(ナタール植民地_ズールー王国)
(引用 ※01)

この地域に住んでいた人たちは、ズールー族(Zulu)と言い、もともとアフリカ大陸中央部にいたバントゥー系民族で、紀元前2000年くらいから民族が分岐して南に移動し、紀元300年頃に現在のクワズールー・ナタール州周辺に到着したと言われています。
農業(ソルガム、ミレットなど)と牧畜(牛、羊)を営み、首長を中心とした集団(王国)を形成し、クワズールー・ナタール州周辺の広い範囲に住んでいました。

シャカ王
※ズールー王国のシャカ王:ズールー族を一大国家へと導いた指導者で、1816年に国王に即位しました。(ズールー王国の始まり)
(引用 ※02)

1800年代の初め、ケープがオランダ(バタヴィア)からイギリスの植民地となると、イギリスの毛織物産業に必要な羊毛を確保するため、メリノ羊が大量に導入され、南アフリカ南東部(現在の東ケープ州周辺)で牧羊業が始まり、沿岸から羊毛が輸出されました。
また同じ頃、ナポレオン戦争が終結(1815年)し、イギリスでは経済が低迷し失業者が多くいたため、失業対策としてイギリス政府はケープへの移住を推奨しました。
1820年に4000人(5000人という記述もある)ほどが政府から補助金をもらってケープにやってきて、ほとんどがアルゴア湾(現在のポート・エリザベス:ゲベーハ)周辺に土地を与えられ農業や牧羊業を始めました。

1823年、元イギリス海軍中尉フランシス・フェアウェルとヘンリー・フィンらが南東海岸の原住民と交易する会社を設立し、1824年にナタール湾(ダーバン)周辺の土地をズールー王国から与えられました。(部族抗争の中で傷を負ったシャカを救ったため)
その年、ケープ植民地からの商人によってナタール湾の北側に集落ができ、ポート・ナタール(Port Natal)という名前で呼ばれるようになり、1835年には、当時のケープ植民地総督だったベンジャミン・ダーバン(Benjamine d'Urban)にちなんでダーバン(Durban)と名前が変わりました。

1838年、フールトレッカーズ(Voortrekkers)がハイフェルト(現在のフリーステート州とハウテン州の辺りの高原地方)から移動してきて現在のクワズールー・ナタール州の南側(現在のピーターマリッツバーグやダーバン周辺)を占領し、1839年にナタール共和国を設立(宣言)しました。
※フールトレッカーズ(Voortrekkers)とは、「前進する旅人」という意味で、オランダ東インド会社がケープに入植して以来、ヨーロッパ(主にオランダ)から移住して定住した白人(ボーア人/ブール人:Boer)とその子孫たちの中で、1835年以降に内陸に大移動(グレートトレック:Greattrek)した人たちのことを示します。

彼らは1800年代初めに植民地化したイギリスの政策に不満があったことと、新たな農地を求めて内陸に移動しました。
特に1833年のイギリス政府の奴隷制度廃止法(ケープ植民地は1834年の終わりに奴隷制度が終了した)によって、ボーア人たちの不満が爆発し、グレートトレックが始まりました。
※ボーア人達は農場で働く労働者の慢性的な不足をアジアや他のアフリカ地域から連れてこられた奴隷たちに頼っていました。(ケープはもともと人の少ない場所だったことと、原住民だったサン人やコイコイ人は農場労働には適さなかった)

彼らはいくつかのグループを作ってハイフェルトまで移動した後、そこに留まる集団と、南下してクワズールー・ナタールに向かった集団に別れました。

地図 グレートトレック
※グレートトレックの軌跡
(引用:※03)

イギリスはボーア人が独立することを許さなかったことと、ダーバンにあるイギリスの貿易会社がフールトレッカーズたちに脅かされることや、海上ルートの戦略拠点をという機能に悪影響を与えることを恐れ、1842年、ナタール共和国をイギリス植民地へ併合することを決めて侵攻し、翌年イギリスはナタール共和国を植民地化(ナタール植民地)しました。
ただし、この時点では、もともとこの地にいたズールー王国はナタール共和国の北にいてイギリスの脅威と考えられなかったため、ズールー王国(ズールー語で「KwaZulu」)は植民地に組み込まれず独立していました。

1879年にイギリスとズールー族との間でズールー戦争が起き、イギリスが勝って、最終的に1887年ズールー王国の土地もイギリスの植民地として併合されました。

その後、1910年にイギリスの自治領南アフリカ連邦が成立し、ナタール州として組み込まれました。
さらに1961年にはイギリス連邦から離脱して南アフリカ共和国が成立し、1994年の州の再編によってクワズールー・ナタール(KwaZulu-Natal)州という名前になりました。

話が脱線しますが、ケープタウン市内にもダーバンビル(Durbanville)というところがあります。(ベルビル:Bellvileの北側)
かつて泉が湧いていた場所で、ケープタウンから馬車で内陸へ出掛ける際に休憩所として利用されていて、パンプンクラール(Pampoenkraal:「かぼちゃの囲い」という意味)と呼ばれていたところでした。(泉の周りにかぼちゃが生えていたことが地名の由来らしい)
1836年に、この村の住民が、当時の植民地総督のベンジャミン・ダーバン(Benjamine d'Urban)に敬意を表して村の名前を「ダーバン」(D'Urban)に変更することを請願し、ダーバン村と変わりました。
しかし、すでにクワズールー・ナタールにもダーバンという街(1835年に命名)があり、紛らわしいということで、1886年にダーバンビル(Durbanville)という地名に変更されました。



引用元:
※01 http://www.freemap.jp/
※02 wikipediaより
※03 wikipediaより




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