2022-07-29 Fri
◆ミューゼンバーグ(Muizenberg)
※ボーイズ・ドライブからミューゼンバーグのビーチを望む
ミューゼンバーグには、東に35kmほど続く白く長いビーチがあり、1年中サーフィンを楽しむ人たちが集まってきます。


※ミューゼンバーグのサーファーたち
1742年、オランダ東インド会社がシモンズ湾を船の冬の避難港として利用し始めました。
オランダ東インド会社の拠点があるケープタウンとシモンズ湾を結ぶこの場所には、会社の前哨基地が置かれました。
このとき、ここを指揮していたのは、ワイナンド・ウィレム・ミューゼ(Wynand Willem Muijs)軍曹で、彼の名前を取ってミューゼンバーグ(Muizenberg)という地名がつきました。
1882年にミューゼンバーグまで鉄道が延び、海のリゾート地となったことで、ケープ植民地の人たちだけでなく、イギリスから客船でやってくる観光客までも休暇を楽しむために集まってきました。
1910年代に入ると、ミューゼンバーグの砂浜でサーフィンも始まりました。
最初はボードの上に腹ばいになって波に乗って楽しんでいましたが、1919年にはボードの上に立って波乗りをするスタンドアップサーフィンをする人も出始めました。

※ミューゼンバーグのサーファー(1930年頃)
(Muizenbergの路上案内板より)
イギリスからの客船の乗客の中には、ミステリー作家のアガサ・クリスティや劇作家ジョージ・バーナード・ショーもいて、この砂浜でサーフィンをしているところを目撃されたという話も残っています。
また、フォルス湾には魚を狙ってサメも入ってきていて、海に入っているサーファーや海水浴客が襲われないよう、監視や注意喚起なども行っています。
ミューゼンバーグのビーチを見渡せるボーイズドライブ(Boyes Drive)に監視所があり、年間を通して監視しています。

※サメの監視所
ビーチにサメが近づいて危険が迫ると、ビーチの事務所に連絡が入り、ビーチにいる人たちに警告を出します。


※サメの状況を知らせる旗


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2022-07-15 Fri
◆セントジェームズ(St James)1840年頃からフォルス湾にやってきたフィリピン人たちは、漁師として漁業に携わり、漁業の中心であったコークベイ(Kalk Bay)周辺に住み始めました。

※1910年頃のコークベイビーチの様子
(Manila Stepsの案内板より)
また、フィリピンは当時スペインの植民地で、フィリピン人の多くは敬虔なキリスト教徒(カトリック)でもありました。
彼らは日曜日になると、教会が一番近くにあるサイモンズタウン(Simon’s Town)まで船に乗って行き、聖シモン・アンド・ジュード教会(Saints Simon And Jude Catholic Church)で礼拝を行っていました。

※サイモンズタウンの聖シモン・アンド・ジュード教会
それを知ったケープの大司教パトリック・グリフィス(Patrick Griffith)は不便(ふびん)に思い、彼らが住む地域にカトリックの礼拝所を建設する土地を与えてもらえないかと、植民地総督のジョージ・グレイに嘆願しました。
この嘆願は了承され、礼拝所としてのみ使用することを条件に現在のセントジェームズ(St James:ミューゼンバーグとコークベイの間)の一角の小さな土地が与えられました。
礼拝所は1858年10月5日に建設が始まり、スペインの守護聖人である聖ヤコブ(Saint James)という名前が与えられて、フィリピン人たちはこの礼拝所を使用するようになりました。

※ セントジェームズにあった最初の教会
(Manila Steps案内板より)
1880年代に入って、コークベイまで鉄道が延び、海水浴のリゾート地としてミューゼンバーグやコークベイに人が集まり、富裕層が別荘地を建て始めたことで、ミューゼンバーグとコークベイの間に新しい駅を建設する話が持ち上がりました。
鉄道当局は、新しい駅を礼拝所のある場所に建設しようと考えました。
当時の礼拝所の神父であったジョン・デュイナン(John Duignam)神父は反対しましたが受け入れられず、代わりとして教会を建てるための新しい土地を与えてもらうことと、駅名を礼拝所の名前(St James)にするという条件で駅の建設を受け入れました。

※現在のSt James駅
新しい教会は、1900年8月12日に礎石が敷設され、フィリピン人たち自らが裏山から石を切り出して建てられました。
新しくできた教会は、セントローレンス・カトリック教会(St. Lawrence Catholic Church)という名前になり、現在は修道院学校も運営されています。

※現在のセントローレンス・カトリック教会
駅の完成後、1903年に駅近くの海岸に更衣小屋とタイドプールができ、子供連れ家族に人気の場所となりました。

※現在のSt Jamesのタイダルプール
現在でもこのカラフルな色の更衣小屋は人の目を引き、ガイドブックなどにも写真が使われています。
(2020年8月にこの更衣小屋で火災が発生し、焼失する事件がありました)

※メインロードからの眺め
海岸線を走るメインロード(M4)からも更衣小屋を見ることができるので、喜望峰やペンギンコロニーに向かう途中、注意して見ていてくださいね。
(南に向かう車線でHeytor Roadとの交差点あたりから見れます)


2022-07-01 Fri
◆フィッシュフック(Fish Hoek)●ドライタウン(Dry Town)
1818年、フィッシュフック地区の土地は、当時のケープ植民地総督チャールズ・サマセット(Charles Somerset)からアンドリーズ・ブルーインズ(Andries Bruins)のいう人に付与されました。
土地を付与する際の条件の一つとして、その所有権証書の中に、「酒場を営業しないことを条件に(Onder deze expresse conditis dat hy aldaar geen tapneering zal mogen drijven)」という条件が書かれていました。(英語で「Under this express condition that he will not be allowed to drive tapneering there」)
理由は、その当時、ケープタウンの町からサイモンズタウンに物資(食糧)を運搬するために、陸路(馬車/牛車)を使って行き来していましたが(当時はまだ鉄道はなかった)、道中に酒場があると、その馬車(牛車)の御者が酒を飲むために立ち寄って到着が遅れるのを防ぐためだったといわれています。
この証書はオランダ語で書かれており、この条件の翻訳(解釈)について、現代でも未だに議論がありますが、その当時からこの「酒を提供しない」という条件を守り、200年あまりお酒のないドライな町(Dry Town)として守り続けられてきました。
また、この町に住む人たちもドライタウンであることに誇りを持っていて、1920年代に入ってホテル等から酒の提供を望む声が上がったときには、認可されることはありませんでした。(1970年代になって、やっとホテルやレストラン等での酒の提供が許可された)
2017年、大手のスーパーマーケットがフィッシュフックでの酒の販売免許の申請があったときも住民から反発が起き、裁判にまで発展しました。
最終的にスーパーマーケットでの販売が認可され、現在はスーパーマーケット系列の酒販店がフィッシュフックにオープンし、ドライタウンは過去のものになってしまいました。


※メイン・ロード沿いの酒屋のサインとショッピングモール内の酒屋
喜望峰やペンギンコロニーに行かれる途中、フィッシュフックの町を通過しますが、写真のような酒屋の看板やサインが道路沿いのショッピングセンタにあるので見つけてみてください。

