fc2ブログ
 
■プロフィール

Yoshi@Cape Town

Author:Yoshi@Cape Town
 
「Capetonianな暮らし」 ブログへようこそ!

南アフリカ共和国ケープタウン市に在住するCapetonian(ケープトニアン)です。観光ガイドもしております。こちらでは「Yoshi」と呼ばれています。1964年生まれ。岐阜県出身。東京にも30年くらい住んでいました。

自然の中で遊ぶことが好きで、日本では乗馬、ボートクルージング、魚釣り、パラグライダー、マイクロライトプレーンなどもしていました。こちらではあちこちにトレッキングルートがあるので、トレッキングも始めたいなと考えています。

皆さんからのご質問、コメント 楽しみにしています。

■リンクのご案内

◆Capetonianな暮らし

Facebookページ

Capetonianな暮らし - にほんブログ村


他にもブログ書いてます。

◆南アフリカのオリーブ


Facebookページ


応援よろしくお願いします。

■カテゴリ
■検索フォーム

■最新コメント

■ご意見・お問合せ

名前:
メール:
件名:
本文:

■ブログ村 旅行ブログ

ケープ半島 ⑪
◆サイモンズタウン(Simon’s Town)

●交通
ケープタウンの街の中心からサイモンズタウンの町までは、レンタカーか運転手付きの車両を使って行ってください。
コンスタンシア(Constantia)経由(M3経由)で片道1時間くらいです。
ホウトベイ(Hout Bay) → チャップマンズピーク(Chapman’s Peak)経由で行くと、もう少し時間がかかります。
電車もありますが、危険なので電車で行くことはやめてください。

・駐車場
今回紹介しているジュビリースクエアが駐車場になっています。
また、町中の路上に駐車スペース(白線で枠が書かれています)もあります。
ただし、路肩に黄色や赤色の線が描かれている場所は駐車や停車が禁止されているところなので、車を止めないようにしてください。

●トイレ
港の前のサイモンズタウン・ウォーターフロント(レストランが入っている建物)の2階にあります。

サイモンズタウン 地図

◆見どころ

●ジュビリースクエア(Jubilee Square)

Jubilee Square Jubilee Squareの表示板

現在は駐車場になっている広場です。
以前は地域の農民が農産物を売っていた場所で、マーケットスクエアと呼ばれていました。

1935年、イギリスのジョージ5世の即位25周年(Silver Jubilee)を記念し、地元のイスラム教学校の子供たちがここにヤシの木を植えたことが名前の由来です。
(Jubileeとは、25年、50年などの節目の年に行う記念祭・祝典の意味)

Jubilee Squareの植樹式の様子
(サイモンズタウン博物館展示物より)
※1935年の植樹式の様子

広場は1986年に大改修され、現在のような形になりました。

Jubilee Squareのヤシの木
※ジュビリースクエア入り口のヤシの木

70年ほど前、子供たちが植えた小さなヤシの木は、ずいぶん大きく成長していますね。

広場の入り口と出口には、大きな錨が置いてあります。

Jubilee Square入口の錨

アパルトヘイト時代のグループエリア法(Group Areas Act)によって、サイモンズタウンは1967年に白人居住エリアと指定され、有色人種のほとんどが町から強制排除されてしまいましたが、それを偲ぶ記念碑として置かれています。

また広場の出口には、かつてクジラの脂身を煮て脂を取っていた大きな鍋も置いてあります。

クジラの脂を煮出した鍋



●ジャスト・ヌイサンス(Able Seaman Just Nuisance:ベテラン船員ジャスト・ヌイサンス)

Just Nuisance銅像
※ジュビリースクエア内の像

1937年生まれの犬(グレートデン)。
名前はジャスト・ヌイサンス。(Just Nuisance:「ただの邪魔者、厄介者」の意味)

彼はサイモンズタウンの波止場をうろついたり、軍艦の甲板で昼寝をしたり、水兵と一緒に列車に乗り込んだりして、自由気ままに生活していました。

ある日、列車に乗り込もうとしたこの犬が鉄道会社に処分されようとしたのを知り、イギリス海軍が水兵として入隊させ、面倒を見ることになりました。

1939年8月25日に入隊したこのグレートデンは、その時入隊名簿に記入するためにジャスト・ヌイサンス(Just Nuisance)という名前が付けられました。

入隊した後も相変わらず水兵のベッドに勝手に潜り込んで昼寝をしたり、無断欠勤をしたり、行儀は良くなかったみたいでしたが、海軍のマスコットとして水兵帽をかぶってパレードに参加したりして皆から愛されていました。

水兵帽をかぶったNuisance
(サイモンズタウン博物館展示物より)

入隊時の階級は一般船員(Ordinary Seaman)でしたが、のちに熟練船員(Able Seaman)に昇格しました。

1944年1月の自動車事故によって健康状態が悪化して除隊し、4月に死亡しました。
彼は軍人として軍の施設内に埋葬されました。

Just Nuisanceの墓
※ヌイサンスの墓



にほんブログ村 旅行ブログへ
スポンサーサイト



テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

ケープ半島 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ケープ半島 ⑩
◆ミューゼンバーグ(Muizenberg)

Muizenbergと東に続くビーチ
※ボーイズ・ドライブからミューゼンバーグのビーチを望む

ミューゼンバーグには、東に35kmほど続く白く長いビーチがあり、1年中サーフィンを楽しむ人たちが集まってきます。

Muizenbergのサーフィン 1 Muizenbergのサーフィン 2
※ミューゼンバーグのサーファーたち

1742年、オランダ東インド会社がシモンズ湾を船の冬の避難港として利用し始めました。

オランダ東インド会社の拠点があるケープタウンとシモンズ湾を結ぶこの場所には、会社の前哨基地が置かれました。
このとき、ここを指揮していたのは、ワイナンド・ウィレム・ミューゼ(Wynand Willem Muijs)軍曹で、彼の名前を取ってミューゼンバーグ(Muizenberg)という地名がつきました。

1882年にミューゼンバーグまで鉄道が延び、海のリゾート地となったことで、ケープ植民地の人たちだけでなく、イギリスから客船でやってくる観光客までも休暇を楽しむために集まってきました。

1910年代に入ると、ミューゼンバーグの砂浜でサーフィンも始まりました。
最初はボードの上に腹ばいになって波に乗って楽しんでいましたが、1919年にはボードの上に立って波乗りをするスタンドアップサーフィンをする人も出始めました。

Muizenbergのサーファー(1930年頃)
※ミューゼンバーグのサーファー(1930年頃)
(Muizenbergの路上案内板より)

イギリスからの客船の乗客の中には、ミステリー作家のアガサ・クリスティや劇作家ジョージ・バーナード・ショーもいて、この砂浜でサーフィンをしているところを目撃されたという話も残っています。

また、フォルス湾には魚を狙ってサメも入ってきていて、海に入っているサーファーや海水浴客が襲われないよう、監視や注意喚起なども行っています。

ミューゼンバーグのビーチを見渡せるボーイズドライブ(Boyes Drive)に監視所があり、年間を通して監視しています。

ボーイズドライブのサメ監視所
※サメの監視所

ビーチにサメが近づいて危険が迫ると、ビーチの事務所に連絡が入り、ビーチにいる人たちに警告を出します。

Shark Flag Shark Flag案内板
※サメの状況を知らせる旗




にほんブログ村 旅行ブログへ

テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

ケープ半島 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ケープ半島 ⑨
◆セントジェームズ(St James)

1840年頃からフォルス湾にやってきたフィリピン人たちは、漁師として漁業に携わり、漁業の中心であったコークベイ(Kalk Bay)周辺に住み始めました。

1910年当時のKalk Bayビーチの様子
※1910年頃のコークベイビーチの様子
(Manila Stepsの案内板より)

また、フィリピンは当時スペインの植民地で、フィリピン人の多くは敬虔なキリスト教徒(カトリック)でもありました。

彼らは日曜日になると、教会が一番近くにあるサイモンズタウン(Simon’s Town)まで船に乗って行き、聖シモン・アンド・ジュード教会(Saints Simon And Jude Catholic Church)で礼拝を行っていました。

Saints Simon and Jude Catholic Church
※サイモンズタウンの聖シモン・アンド・ジュード教会

それを知ったケープの大司教パトリック・グリフィス(Patrick Griffith)は不便(ふびん)に思い、彼らが住む地域にカトリックの礼拝所を建設する土地を与えてもらえないかと、植民地総督のジョージ・グレイに嘆願しました。
この嘆願は了承され、礼拝所としてのみ使用することを条件に現在のセントジェームズ(St James:ミューゼンバーグとコークベイの間)の一角の小さな土地が与えられました。
礼拝所は1858年10月5日に建設が始まり、スペインの守護聖人である聖ヤコブ(Saint James)という名前が与えられて、フィリピン人たちはこの礼拝所を使用するようになりました。

最初のSt James Roman Catholic Church
※ セントジェームズにあった最初の教会
(Manila Steps案内板より)

1880年代に入って、コークベイまで鉄道が延び、海水浴のリゾート地としてミューゼンバーグやコークベイに人が集まり、富裕層が別荘地を建て始めたことで、ミューゼンバーグとコークベイの間に新しい駅を建設する話が持ち上がりました。

鉄道当局は、新しい駅を礼拝所のある場所に建設しようと考えました。

当時の礼拝所の神父であったジョン・デュイナン(John Duignam)神父は反対しましたが受け入れられず、代わりとして教会を建てるための新しい土地を与えてもらうことと、駅名を礼拝所の名前(St James)にするという条件で駅の建設を受け入れました。

St James駅
※現在のSt James駅

新しい教会は、1900年8月12日に礎石が敷設され、フィリピン人たち自らが裏山から石を切り出して建てられました。

新しくできた教会は、セントローレンス・カトリック教会(St. Lawrence Catholic Church)という名前になり、現在は修道院学校も運営されています。

St Lawrence Catholic Church
※現在のセントローレンス・カトリック教会



駅の完成後、1903年に駅近くの海岸に更衣小屋とタイドプールができ、子供連れ家族に人気の場所となりました。

St Jamesのタイダルプールと更衣小屋
※現在のSt Jamesのタイダルプール

現在でもこのカラフルな色の更衣小屋は人の目を引き、ガイドブックなどにも写真が使われています。
(2020年8月にこの更衣小屋で火災が発生し、焼失する事件がありました)

道路からの眺め St Jamesのタイダルプールと更衣小屋
※メインロードからの眺め

海岸線を走るメインロード(M4)からも更衣小屋を見ることができるので、喜望峰やペンギンコロニーに向かう途中、注意して見ていてくださいね。
(南に向かう車線でHeytor Roadとの交差点あたりから見れます)




にほんブログ村 旅行ブログへ

テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

ケープ半島 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ケープ半島 ⑧
◆フィッシュフック(Fish Hoek)

●ドライタウン(Dry Town)

1818年、フィッシュフック地区の土地は、当時のケープ植民地総督チャールズ・サマセット(Charles Somerset)からアンドリーズ・ブルーインズ(Andries Bruins)のいう人に付与されました。
土地を付与する際の条件の一つとして、その所有権証書の中に、「酒場を営業しないことを条件に(Onder deze expresse conditis dat hy aldaar geen tapneering zal mogen drijven)」という条件が書かれていました。(英語で「Under this express condition that he will not be allowed to drive tapneering there」)

理由は、その当時、ケープタウンの町からサイモンズタウンに物資(食糧)を運搬するために、陸路(馬車/牛車)を使って行き来していましたが(当時はまだ鉄道はなかった)、道中に酒場があると、その馬車(牛車)の御者が酒を飲むために立ち寄って到着が遅れるのを防ぐためだったといわれています。

この証書はオランダ語で書かれており、この条件の翻訳(解釈)について、現代でも未だに議論がありますが、その当時からこの「酒を提供しない」という条件を守り、200年あまりお酒のないドライな町(Dry Town)として守り続けられてきました。
また、この町に住む人たちもドライタウンであることに誇りを持っていて、1920年代に入ってホテル等から酒の提供を望む声が上がったときには、認可されることはありませんでした。(1970年代になって、やっとホテルやレストラン等での酒の提供が許可された)

2017年、大手のスーパーマーケットがフィッシュフックでの酒の販売免許の申請があったときも住民から反発が起き、裁判にまで発展しました。
最終的にスーパーマーケットでの販売が認可され、現在はスーパーマーケット系列の酒販店がフィッシュフックにオープンし、ドライタウンは過去のものになってしまいました。

Fish Hoekの酒屋のサイン Fish Hoekの酒屋
※メイン・ロード沿いの酒屋のサインとショッピングモール内の酒屋

喜望峰やペンギンコロニーに行かれる途中、フィッシュフックの町を通過しますが、写真のような酒屋の看板やサインが道路沿いのショッピングセンタにあるので見つけてみてください。





にほんブログ村 旅行ブログへ

テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

ケープ半島 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
ケープ半島 ⑦
◆ケープ半島の人々

フィッシュフックの背後にある丘に、ピアーズ・ケーブ(Peers Cave)という名前の洞窟があります。

Peers氏による発掘調査の様子 Peers Caveから発見された人骨の絵
※ピアーズ・ケーブでの発掘の様子
(Fish Hoek Valley博物館展示物より)

1927年からの調査で、この洞窟から人類の骨を含む1万年から1万5千年前の遺跡が見つかりました。
フィッシュフックを含め、この辺りには先史時代から人の営みがありました。



オランダ東インド会社が貿易船の冬の避難場所としてシモンズ湾を利用し始めたのが1742年のことでした。

シモンズ湾に船を停泊させている間、船員たちを滞在させられるよう施設の建設が始まり、アジアやアフリカ各地から連れてこられた奴隷たちがシモンズ湾で働きました。

奴隷たちは一定期間建設作業に従事したのち、解放されて自由の身となりました。
彼らはその後もフォルス湾沿岸に残り、漁を行うようになり、コミュニティもできていきました。


1814年にケープはオランダ東インド会社の植民地からイギリスの植民地になり、シモンズ湾に海軍基地ができて、イギリスからの移住者が増えました。

そのすぐあとの1819年、現在のシエラレオネ共和国のフリータウンにイギリスの海軍基地ができ、そこで雇われた黒人たちもサイモンズタウンにやってきました。
彼らはクルーメン(KroomenまたはKrumen)と呼ばれ、暑さに強く、元気で勤勉でまじめという評判があり、3年契約で採用されて海軍基地内のあらゆる仕事に従事しました。(クルーメンとは、彼らがKru族出身だったところからそう呼ばれた)
彼らの中には契約が終了した後も引き続きサイモンズタウンに残り、地元のコミュニティの中に混ざりあっていきました。

海軍基地内のクルーメンたち
※海軍基地内のクルーメンたち
(サイモンズタウン海軍基地の案内板より)

クルーメンたちの墓石
※サイモンズタウンに移り住み、生涯を終えたクルーメンたち
(サイモンズタウンのSeaforth墓地にて)

1840年頃からは、フィリピンからも人がやってきました。
彼らが何をしに、どうやってケープまでやってきたのかはっきりした記録が残っていませんが、コークベイやセントジェームズ周辺に住みつき、漁法技術を伝承したことで、フォルス湾の漁業が経済活動として確立していきました。

Manila Steps 1 Manila Steps 2
※彼らはマニラズ(Manilas)と呼ばれていました
(セントジェームズのマニラ・ステップス)

1880年代にケープ半島まで延びてきた鉄道建設には、東ケープ地方の先住民だったコーサ人を連れてきて従事させました。
鉄道の完成後も、港の造船所の建設やその造船所での仕事に就き、ケープ半島に残りました。

また鉄道開通により、インド人やユダヤ人もサイモンズタウンやミューゼンバーグに流入し、商売やホテルなどの経営を始めました。

こうして1900年代に入るまでに様々な出自の人々がケープ半島に住み着き、混ざりあいながらコミュニティができていきました。




にほんブログ村 旅行ブログへ

テーマ:南アフリカ - ジャンル:海外情報

ケープ半島 | 17:00:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
次のページ